石谷家文書(いしがいけもんじょ)の研究成果と史料集の出版について

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一般財団法人 林原美術館 岡山県立博物館

平成26年6月23日(月)に、一般財団法人 林原美術館(館長:谷一 尚、住所:岡山市北区)と岡山県立博物館(館長:谷名 隆治、住所:岡山市北区)が共同で、天文4年(1535)~天正15年(1587)までの約50年間にわたる、47点(全3巻)の歴史的意義の高い文書群「石谷家文書」(林原美術館所蔵)について発表を行いました。両館の展覧会などを通じて数点ずつ史料を公開してまいりました。その間、史料集の作成準備にあわせて継続してきた研究によって、あらたに下記のような歴史的意義の高い書状が石谷家文書に含まれていたことがわかってきました。

【発表後に新たに判明した主な書状の内容】
①中島重房・忠秀書状(天正6年(1578) 11月24日) 第2巻所収
長宗我部元親の家臣の中島重房らが、「井上殿」(明智光秀側の者と考えられるが詳細は不明)に宛てた書状。ウハ書を赤外線写真で撮影した結果、石谷頼辰・斎藤利三に宛てて出したものと判明しました。天正6年に織田信長から元親へ出された朱印状に対する感謝の意を述べ、中島らが阿波勝瑞(しょうずい)城(現徳島県藍住(あいずみ)町)を手に入れれば、淡路や讃岐の戦線にも決着がつくだろうとの見通しを持っていたことがわかります。信長の朱印状の存在が確認されるとともに、元親家臣らに元親と信長の関係が好ましいものと認識されており、元親による四国平定の戦いが信長の了解を得て行われていたことの証拠となる史料です。

②近衛前久書状(天正11年(1583)2月20日) 第1巻所収
元関白の近衛前久が石谷頼辰・光政に宛てた書状。「去年不慮、於京都信長生害之刻」とあり、天正10年6月2日の本能寺の変で織田信長が自害したことを指しているため、翌11年のものです。本書状からは、前久が信長と長宗我部元親との間を取り持っていたことがうかがえ、また前久が「元親律儀人にて」と評していたことがわかります。なお、全く同じ日に前久が薩摩の島津義久に宛てた書状(「島津家文書」、東京大学史料編纂所所蔵)も現存していますが、本書状のような長文の行間書はありません。

③小早川隆景書状(天正11年(1583) 5月22日) 第2巻所収
毛利輝元の重臣の小早川隆景が石谷頼辰に宛てた書状。本書状は、本能寺の変の後、天正11年4月に羽柴秀吉が柴田勝家を破った賤ヶ岳の戦い(現滋賀県)の直後に出されたもので、毛利氏の本拠地だった吉田(現安芸高田市)に長宗我部氏の使者が訪れ、それを受け入れた輝元も長宗我部氏との安定した関係を望んでいたことがわかります。この後、毛利氏は秀吉に接近し始め、元親は反秀吉陣営を貫きました。この時期の毛利氏と長宗我部氏が、お互いの出方をみるための駆け引きをしていたことがわかる史料です。
このように石谷家文書には、長宗我部氏の四国平定の構想がわかるものや、本能寺の変後の近衛前久や毛利氏の動向がうかがえる史料も含まれていたことがわかってきました。

【史料集の出版について】
石谷家文書は、16世紀半ばの時代状況をよく伝え、室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰の親子2代に関連する貴重な文書群です。石谷氏の由緒や権利に関する書状から姻戚関係、長宗我部元親に関するもの、そして注目の本能寺の変前後の書状まで、戦国時代史の解明に一石を投じる史料の全容を紹介するために、下記とおり史料集を出版いたしますのでお知らせいたします。


書  名

浅利尚民・内池英樹編『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』

出 版 社

吉川弘文館

定  価

1,800円(税別)

配  本

2015年6月1日(早い地域では翌日、遅くとも数日後から店頭に並ぶ予定です)

内  容

東京大学史料編纂所が撮影した47点すべての写真(ウハ書の赤外線写真も含む)・釈文・解説、関連コラムなど


※石谷家文書については、2014年6月23日発表のプレスリリースもご参照ください。

①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
①のウハ書(右は赤外線写真)
②近衛前久書状 天正11年(1583)2月20日
③小早川隆景書状 天正11年(1583)5月22日
『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』

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